「おんな城主直虎」井伊直政(虎松・万千代)とは?子孫は井伊直弼!

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、

「菅田将暉」が演じる「井伊直政(虎松・万千代)」という人物について

難しい用語を使わずにわかりやすく解説していきます!

現在彦根では彦根城城築410年祭を開催中です。

11月3日には「彦根藩初代藩主・井伊直政公」と書かれた記念碑も駅前に建てられました。

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「井伊直政」(虎松・万千代)とは

「井伊直政」(虎松・万千代)は、

「井伊直親」と母「奥山ひよ」(しの)との間に

遠江国井伊谷の祝田(静岡県浜松市北区)で生まれます。

父の「井伊直親」は井伊家の当主であり、

順当に行けば、次は「井伊直政」がそのまま当主を継ぐはずでした。

しかし「井伊直親」は、

今川家に謀反を起こす疑いをかけられ、

「今川氏真」によって殺されてしまいます。

それによって、井伊家は当主を失ってしまいます。

その時「井伊直政」はまだまだ幼かったため当主にはなれませんでした。

そのため「井伊直親」の従妹の「井伊直虎」が当主となりました。

「井伊直親」の息子であった「井伊直政」「今川家」によって命を狙われますが、

今川家家臣「新野親矩」による嘆願(たんがん)により、命はとられることはありませんでした。

小野政次の裏切りにより逃亡する井伊直政

「今川家」から命を狙われることはなくなりましたが、

その後も「井伊直政」には危機がせまります。

「武田家」「今川家」との間に戦が起こった時、

「今川氏真」は、井伊家の家老である「小野政次」に井伊家を乗っ取らせて、

自分達の思いのままに動かそうとたくらみます。

そこで「今川氏真」「井伊直政」を暗殺すよう「小野政次」に命令します。

でもその計画は失敗に終わります。

うまく逃げた「井伊直政」は寺に入り身を隠しますが、

事実上「井伊家」はこの時滅んでしまいます。

その後、母である「奥山ひよ」(しの)は「松下源太郎」と再婚。

「井伊直政」「松下家」の養子となります。

成長した「井伊直政」は、

井伊直虎」「祐椿尼」「奥山ひよ」「南渓瑞聞」らの計らいにより、

「徳川家康」のもとに行くこととなります。

「井伊直政」「小野亥之助」(朝之・万福)とともに小姓(世話係)に取り立てられます。

その時は「井伊直政」「松下家」の養子だったため、

正式には「松下直政」でした。

でも「徳川家康」の計らいにより「井伊家」を復活することを許されます。

そして元の領地であった「井伊谷」の領有を認められます。

徳川四天王として活躍する井伊直政

「徳川家康」に仕えてからの「井伊直政」の活躍ぶりは見事でした。

その時期「徳川家康」と武田信玄の息子「武田勝頼」は敵対関係にありました。

「武田家」との戦である「高天神城の戦い」にて武功を挙げたのです。

その後「武田家」は滅びてしまいます。

さらに「本能寺の変」の際、

危険にさらされた「徳川家康」を逃亡(いわゆる伊賀越え)の成功を手助けしました。

さらには「井伊直政」「武田家」が滅びた後の旧武田家家臣たちをまとめ、

「井伊家」の部隊として召し使えました。

この井伊家部隊は、真っ赤な武具をまとっており「井伊の赤備え」と呼ばれ恐れられました。

この「井伊の赤備え」の活躍はめざましく、

小牧・長久手の戦いなど多数の戦いで武功を挙げ、

「井伊直政」「徳川四天王」の一人と称されることになります。

「徳川家康」「豊臣秀吉」に従うようになると、

「豊臣秀吉」「井伊直政」を高く評価し、

「豊臣」姓を与えるとともに「侍従」の位を与えています。

「侍従」はいわば天皇のそばに仕える役人であり、

徳川家家臣の中では最も位が高いものでした。

「豊臣秀吉」による「小田原城攻め」では唯一城内まで攻め込むことに成功しています。

奥州仕置(東北地方の平定)でも活躍。

「徳川家康」が江戸に移ると、

「井伊直政」12万石」という徳川家臣最大の石高で箕輪城(群馬県高崎市)の城主となります。

「豊臣秀吉」が病死し「徳川家康」「石田三成」が対立するようになると、

「井伊直政」は、もともと豊臣方だった複数の武将たちを徳川方に引き込むことに成功。

関ヶ原の戦いでも「東軍(徳川方)」の中心的人物として勝利に貢献。

関ヶ原の戦い後の戦後処理にも尽力し、

徳川家に刃を向けた者たちに寛大な対応を行いました。

これらの功績を認められて、

「石田三成」が治めていた近江国(彦根市)に18万石」を与えられます。

当初は石田三成の居城であった「佐和山城」に入りますが、

敵の城に入ることを嫌がった「井伊直政」は新しい城を建設します。

これが国宝「彦根城」です。

この「彦根城」建城の時に「佐和山城」を取り壊した資材を再利用されたとされています。

彦根藩の初代藩主となった「井伊直政」は、

関ヶ原の戦いから2年後41歳」の若さで病死しました。

その後、彦根藩は代々井伊直政の子孫が藩主を務めることとなります。

桜田門外の変で殺害された「井伊直弼」は、

彦根藩の16代目の藩主であり「井伊直政」の直接の子孫にあたります。

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最後に

今年建城410年になる「彦根城」

直虎や万千代の「井伊家」の血は脈々と受け継がれています。

戦国時代を生き抜いてきた彼たちの思いを知れば知るほど。

彦根市民としてを誇りに思います。

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